HANS
―闇のリフレイン―


夜想曲3 Nacht

4 名を梳く者の宿命


潮風に乗ってシャボン玉が飛んでいた。
それらは暗い海の向こうに流れて消えた。
駅前の広場には、大きなツリーが飾られていたが、そこに明かりは灯っていない。点灯する時間は、とうに過ぎてしまっていた。ハンスは少しがっかりして、そのツリーの周りを歩いて花壇を抜け、海の近くまで行った。
人通りはほとんどなかった。
そこには闇の風もなかった。


  渦潮の中でいつも あなたを待っていたの
  速い水の流れの中で 凍りついた約束の羽を広げて
  ただ一人だけのあなたを


少女の細い声が風に乗って木霊している。
(どこから……?)
それは遠い海の向こうから響いて来る。そんな錯覚を覚えた。海の底に沈む深い悲しみ。それに同調する者を引きずり込んでしまおうとする美しい幻想。
「ラインの乙女……」
その岩場で歌う少女に魅入られた船は、次々と水底に沈んでしまうという伝説を、彼は思い出した。
「でも、どうしてここに……?」

ふいにその声が途切れ、バイクの音にかき消された。見ると、対角線上の欄干の端にいた少女が迎えに来た男のバイクに乗って走り去るところだった。瞬間、少女は振り向いてこちらを見た。まだ、ほんの12、3才だろうか。その印象はハンスの胸に強く残った。


それからまた、ハンスは駅前の広場に戻ると白いツリーを見上げた。
「大きいな。どれくらいの高さがあるんだろう?」
それは、子どもの頃、家の広間に飾られていたツリーを彷彿とさせた。
(あの頃にはまだ、やさしかった父様がいて、母様もいて、執事や世話係の女達もいて、僕は安心していられた)
懐かしい風に涙が絡んだ。それは足元をすり抜けて、海に至り、波を蹴立てて遠方へ流れた。

それから、どれくらいの時が過ぎたのか。闇の中に誰かがいた。ハンスははっとして顔を上げる。
(昼間の奴か? それとも……)

殺意を感じた。海に面した公園の片隅に闇が潜んでいた。そこから放たれた風の刃がハンスの右脇を霞めた。
「誰だ?」
振り向かずに訊いた。相手の返事はない。代わりに、次の刃が襲い掛かる。
「無駄だ」
ハンスは難なくそれをかわすと、渦巻く風の輪の中に、闇を絡め取った。その中心に捕らわれ、姿を現したのは、15、6才の少女だった。

「ずっと僕を付けて来たのか?」
ハンスが問う。が、少女は答えずに睨み返した。彼女は明らかに敵意を持っていた。握られたナイフの刃が上向きになっているところを見ると、その殺意は明らかだ。
「何故、こんなことをする?」
その少女とは面識がなかった。故に、その動機も思い当たらない。
「吹雪……」
少女が言った。
「吹雪?」
心当たりはなかった。

「おまえが殺した……!」
少女が言った。
「何のこと?」
夜の海に星はなかった。冬の空気が街灯の光と彼らの瞳を凍てつかせる。
「あの子はいい子だった。やさしくて、本当にいい子だったんだ。ただの監視者だったのに……」
少女の長い黒髪が風にばらばらと舞い、その先に黒い夜が繋がっていた。
「ああ。もしかして、あの新幹線に乗っていた……」
彼は結城を監視していた少年のことを思い出して言った。

「そうさ」
少女が憎しみの籠もった目を向けた。
「でも、それは……その吹雪って子が危ない物持ってたから……」
少年は、結城を道連れに爆発物を使って心中しようと画策していた。人が大勢乗っている新幹線の中で……。しかし、結果的にはハンスの機転により、犠牲者は出ずに、少年一人だけが爆死して終わった。それは、彼にとっても酷く後味の悪い事件だった。
「僕だって止めようとしたんだ。なのに……」
「黙れ! 消えろ! おまえなんか、今すぐに……!」
少女は闇の風を纏っていたが、それは到底彼の力に及ぶものではなかった。それでも少女は執拗にハンスを追い続け、ナイフを振りかざした。

「よせ。君に勝ち目はない」
闇の中で銀色のナイフが閃く度、記憶の糸が切れて行く冷たさを感じた。が、彼はどうしても少女を傷付ける気にはなれなかった。
「やめろ!」
それは昔、父が振るったナイフの刃に似ていた。
「頼むからやめてくれ! 君を傷付けたくないんだ。それ以上続けたら、僕は……」
記憶の束がばらけて散った。花壇の薔薇が砕けるように、闇もまた砕けて散って行く。
(ああ、母様……!)

闇雲に振り回して来る少女のナイフが彼の左手を擦過した。
薄く滲んだ赤い筋……。それは死んでしまった少年の手首から流れた赤い血を彷彿とさせた。そして、母の身体から溢れた血が白い花を染めて行った時の記憶が脳裏に過る。


  Knabe sprach: ich breche dich,

    Röslein sprach: ich steche dich,

      Und ich will's nicht leiden.

        Röslein, Röslein, Röslein rot,


頭の中でメロディが木霊していた。
「くそっ! こんなことはもうたくさんだ! やめろ! やめちまえ! 今すぐに!」
ハンスは、そう叫ぶと少女の手からナイフを叩き落とした。それから、風の力で硬化させ、切っ先を尖らせた光る爪を、その喉元に突き付けて言う。
「さあ、今なら許してやる。このまま帰るんだ。そして、二度と僕の前に現れるんじゃない」
「帰る? どこへ帰れと言うの? わたし達には家なんてない。帰るところは闇の中。おまえを道連れにしてね」
少女の胸に仕込まれていた爆薬。その起爆スイッチに繋がった紐を彼はその爪で切断した。
「……!」
そして勢い良く海に投げ捨てた。

「何で……!」
「君が名前を教えてくれたからさ」
「名前?」
「吹雪って……。名前がわからなければ、墓さえ作れないだろ?」
「墓……?」
「君だって、忘れられたら悲しいんじゃないのか?」
二人の頭上に風が渡る。

「死ぬことは美徳だ」
頬を引き攣らせて彼女が言った。
「でも、吹雪は……。名簿から消された。誰も覚えてはいけないから……」

「僕は覚えてるよ」
「……!」
「覚えていてやる。だから、教えてくれ。君の名前を……」
「……菘(すずな)」
「覚えておくよ。だから、今は僕の前から立ち去ってくれ!」
少女は日本人にしては薄い茶色の目でじっとハンスを見つめていたが、やがて、闇の向こうへ駆けて行った。

「何故止めを刺さなかったのですか?」
背後から響いた男の声は少し擦れていた。
「必要がないから……」
ハンスは振り向かずに応えた。
「甘い考えですね」
「でも、彼女は……」
ハンスがそう言い掛けた時、遠くで汽笛が鳴り響いた。
「また来ますよ。そうでなければ、仲間から始末されるでしょう。勝手な行動に出たのですから……」
振り向くと、そこに和装の男が立っていた。

「茅葺庵、あなたも闇の民なのか?」
ハンスが訊いた。
「もう、昔のことですよ」
庵は自嘲するように言う。
「母様も?」
「ええ。それはもっと昔のことです」
男の背後にあるのは暗い海。空からは風に飛ばされた雪がちらついていた。
「それはやめたということですか? それとも裏切ったと……」
「それは互いの言い分によって解釈が別れるところですね」
陸に降る氷の欠片。それは何かの死骸に似ていた。吹き荒ぶ記憶の悲しみに……。胸に流れる異国の風を感じながら、二人は互いを凝視していた。

「あなたは闇と屍の匂いがする……」
ハンスが言った。
「懐かしいでしょう? そして、あなたもまた、そこへ戻って来る。悲しい性ですね」
「性?」
ハンスが首を傾げる。
「名を梳く者≠フ定め。つまり、私達は共に逃れることの出来ない暗殺者という宿命を背負っているのですよ」
「意味がわからない」

「何人殺しましたか?」
街灯の影が斜めに伸びて、二人を隔てる。
「さあね。この手に訊いてみないとわからない。だけど、生憎、僕の手は無口なんでね」
微笑しながら手で雪を梳く。
「いい答えです」
「そう言うあなたは何人殺した?」
「風の向くまま……」
師走の風に煽られて短い袂が闇に靡く。

「僕も殺す?」
ハンスが訊いた。
「何故? 美羽様のお子であるあなたに対し、殺意を向けることなど出来ましょうか?」
庵は透ける彼方の闇を見ていた。
「母様は、あなたにとって何なのです?」
「彼女は……巫女だったのです。穢れてはいけないお方でした。それをあの異国の者が奪ったのです。巫女を失った梳名家は崩壊しました。そして、私も彼女を追って闇を捨てた」
蜀台に灯されたキャンドルのような光を乗せた船が、ゆっくりと東へ動いて行く。

「恨んでいるの? 母様を……」
「いいえ。感謝しています。ずっと囲われ、暗闇にいた私を外へ導いてくれたのですから……でも、その息子であるあなたは、外でも同じ道を辿っている。何故です? 暗殺者として手を汚し、人から恨みを買い、招待を隠して生きる。何故そのような道を選ぶのです? あなたは自由を求めないのですか?」
「自由?」

――共に自由を得るために……

足元に積もる雪の死骸を見つめながら、ハンスは考えた。
「手が冷たい……」
凍り付いたままの心臓。鼓動は聞こえて来なかった。代わりにヒューッという高い笛の音がした。
「闇の民とは何なのですか?」
「それは、死に急ぐ人々の集団です」
雪はだんだん激しく降って来た。それでも、その大半は足元で、あるいは海に至って消えて行く。

「でも、それは彼らが選んだ訳じゃない。誰かに強制させられているのでしょう?」
「そう。選び取ることが出来なかった者達の末裔。彼らは破滅への道を歩んでいるのです」
「じゃあ、何故その誰かを倒さないのですか?」
「ほう。あなたは国を滅ぼせと……?」
冷気の中にあって、冷たさは感じなかった。
「能力者達は何人いる?」
「組織はあなたが思うよりも遥かに複雑です。私にも、その全容は把握出来ません。たとえ何人かを救うことが出来たとしても、多くは命を落とすことになるでしょう。それはこの国の不治の病と言ってもいい。回復させるには、長い年月と多くの資金、そして、思い切った外科手術が必要でしょう。それを施せる医者が、この国にはいないのです」

「庵、あなたでは駄目なのか?」
「私は……一介の学者に過ぎません」
二つの影は交わって、その境目は判然としなかった。
「そして、闇そのものを司る能力者……。そうではないのですか?」
「どうでしょう? あなたの力もまた未知数ですね? 何故隠すのですか?」
「必要ないから……」
「私も同じ答えです」
それを聞くと、ハンスはふうっと長いため息をついた。

「では、僕達が争う必要もない訳だ」
「そうですね」
「じゃあ、何故、あなたは僕の前に現れたのですか?」
「見てみたかったから……。そう。美羽様の落とし子の実力を……。でも、今あなたは戦意を喪失している。また、別の機会にしますよ。それに、今夜は冷えますし……」
「面白い人だな。もう一つ教えてくれませんか? 何故、僕にドイツへ帰れなんて言ったのですか?」

「闇の民が動き出しているからです。あなたの来日を知って、つまらない画策をしようとしている者達が……。あなたにはどうでもよいことかもしれませんが、始めは小さなその綻びが意外な結末を招くかもしれない。私にとってこの国や闇の民の行く末など憂うに足るものではないのですが、あなたの周囲に吹き荒れる風が滅びを招く。その時、あなたは耐えられますか?」
「どういうこと?」
怪訝な顔でハンスは訊いた。
「私に言えるのはそこまでです。美羽様なら、予見出来たかもしれませんが、私にそのような能力はありません」

「ドイツへ帰れば、それが避けられるの?」
「何とも申し上げられません」
「それなら、やっぱり僕はここに残る。仲間がいます。みんなで協力すれば、悲劇は防げると思う」
「わかりました。では、そろそろ戻られた方がいいでしょう。彼女が心配しています」
ハンスも上着の襟を立てて頷いた。


12月になると人々が背負った荷物とコートの分、急に気忙しくなったような気がした。雑踏の中に流れるクリスマスソングもどこか悲しくて滑稽な感じだとハンスは思う。それでも、彼はその日が来るのを楽しみにしていた。異国で過ごすクリスマスの夜はいったいどんな風だろうと想像するだけで楽しい夢を見ることが出来た。
美樹の家でもクリスマスツリーを飾り、家の周囲に電飾を付けた。夜の一時電気を灯す。それは広大な夜の海に出港しようと上向いている船のイメージを模した物で、そのデザインは昨年、二人で見た光のモニュメントに近い物を選んだ。
今はもう、その電飾の光も消えている。零時に近いこの時間に、海辺を散歩している者はなかった。

「ねえ、アル。あの男のこと、どう思う?」
街灯の下でウイスキーの瓶に口を付けている男に訊いた。
「さあな。日本語でピーチク喋られてもわかんねえよ」
男はジャンバーにマフラーを巻き、布の袋に画材を持ち歩いている。アルモス・G・ガザノフは放浪する画家だった。が、今は日本にいて、文字の読み書きが出来ないハンスのために記録を取ることに生き甲斐を見出していた。

「茅葺庵。奴の本性は何だと思う?」
ハンスが訊いた。
「描いてみなければ何とも言えねえな。だが、おめえの方がよくわかってんじゃねえのか? 俺が思うに、多分ろくなもんじゃねえ。関わりたくない野郎だ」
「うん。僕もそう思う。でも、僕はもう関わってしまったらしいから……」
ハンスはじっと闇の空を見つめていた。
「飲むか? 今夜は冷えるぜ」
男がウイスキーの瓶を差し出す。
「いいよ。僕はあそこの販売機でココアを買うから……」
そう言うと彼は駅舎の方へ駆けて行った。


家に帰ると、美樹が玄関で待っていた。
「よかった。もう帰って来ないんじゃないかと思った」
そう言う彼女の表情は硬かった。
「どうしてですか? 僕はいつだって君の所へ帰って来るですよ」
彼がやさしくそう言うと、彼女は少しだけ睫毛を震わせて言った。
「だって……怒ってたでしょう?」
その瞳は少し潤んでいた。色合いはやや青みがかった黒。菘は明るい茶色をしていたし、庵は漆黒に近い黒色をしていた。同じ日本人でも少しずつ、瞳の色や髪の色合いが違うのだなと彼は思った。

「怒ってなどいません。君は正しいことを言ったですよ。それを気にした僕は子どもでした。ルドがよく言うんです。そんなのは子どもの振る舞いだって……。だから、おまえはいつまでも子どもっぽいままなんだって……。そうかもしれない。でも、自分でもどうにも出来ない。欲しい物は必ず手に入れたい。僕は君が欲しかった。他の誰かを傷付けたとしても……。そうして、今はここにいる。だから、必ず帰って来ます。君が好きだから……」
「ハンス……。ごめんね。さっきはひどいこと言って……」
美樹が謝る。
「僕の方こそごめんなさい。僕が考えなしに言ったりやったりしたことで、君を傷付けたのならば、そして、これからもそういうことがあるかもしれないけれど、どうか許して」
「もちろんよ」
「美樹……」
彼らは互いの目をじっと見つめるとキスを交わし、寝室へ向かった。


翌日の午後は子ども達のレッスンがあった。複数の子どもの同時レッスン。始めは一体どうなるのかと美樹は心配したが、いざ始まると、みんな楽しそうに歌ったり笑ったりして和気藹々としていた。一人一人が弾くピアノに耳を傾け、それについて感想を言ったり、良いところを褒め合ったりする。どの子もみんな、ハンスの言葉だと熱心に聞いた。レッスン時間についても特に指定はなく、出入りも自由にしていいとハンスは言った。しかし、誰も途中で帰ろうとはしない。まるで遊んでいるような感覚で音楽センスが身についていく。しかも、帰る頃には全員がドイツ語で簡単な童謡を歌えるようになっていた。そして、子ども達もそれぞれレベルに合った曲が演奏できるようになっているのだ。

「ハンス先生のレッスン楽しい!」
「もっといっぱいやりたい!」
子ども達は夢中になり、付き添っている親達でさえ時を忘れた。
みんなが夢中になれる楽しい音楽教室。それが評判を呼び、開く度に生徒の数も増えていった。

「ドイツでも教えていたの?」
美樹が訊いた。
「いえ。ピアノを教えたことはありません」
「え? ほんとに? だとしたら、あなたって教える方でも天才だわ」
「そんなことありません。僕も楽しいからやっているだけだし……」
「ハンスは子どもが好きなのね」
「はい。大好きです」
彼はうれしそうだった。しかし、美樹の表情が微かに曇る。

「美樹ちゃんは、子どもが好きになれませんか?」
「ううん。ちがうの。ただ……。ハンスは赤ちゃんが欲しいと思っているんじゃないかなって……」
そう言うと彼女は睫毛を伏せた。点滅を繰り返しているイリュミネーションの灯が、そんな彼女の横顔に反射する。

「……わたしね、赤ちゃんができないの」
「できない……?」
ハンスが抑揚のない調子で問い返す。
「前に一度、結婚していたことがあるって言ったでしょ? その時、一度赤ちゃんを授かったことがあるのよ。でも、つわりが酷くて……」
「つわり?」
「気持ちが悪くて……。でも、旦那もその母親もそんなの病気じゃないって……。だから、辛くても我慢して……うんと無理して……。それである日、突然お腹が痛くなって救急車で病院に行った時にはもう手遅れで……」
「美樹……」
その頬に涙が伝った。

「それで……もう二度と赤ちゃんはできないってお医者さんから言われたの……!」
ハンスは黙って彼女を抱いた。その胸に顔を埋めて美樹が言った。
「ごめんね……。隠しているつもりはなかったの。でも……」
「言わないで……。もう何も……辛いことなんか言わなくていいから……。言ったでしょう? 僕はただ、こうして君と一緒にいられるだけで幸せなんだ。赤ちゃんは好きだけど、欲しかったら、どこかでもらって来ればいいですよ。でも、今の僕にとっては君が1番大事だから……。そして、君を泣かせた者を僕は憎む。君が望むなら、そいつを殺しにだって行く。だから、どうぞ泣かないで……。お願いだから、ずっと僕の傍にいて……。君が望むものをあげる。だから……」
ハンスは彼女の背を撫でながら繰り返す。

「愛しています。心から……。僕は君だけを守りたいんだ。君を傷つけるすべてのものから……」
そして、彼はやさしくキスをした。何度も何度も繰り返し……。時の向こうに置いて来た何かを取り戻そうとしているかのように……。

その夜。ハンスは用事があると言って外出したきり戻って来なかった。美樹は胸騒ぎを覚えた。

――君を泣かせた者を僕は憎む。君が望むなら、僕はそいつを殺しにだって行く

美樹はそれを望んだ訳ではなかった。が、彼はそれを果たそうとするかもしれない。そう思うと居ても立ってもいられなくなり、飴井のところに電話した。
――「ハンス? ああ、来たけど、すぐに帰ったよ」
電話の向こうで飴井が言った。
「それで、要件は何だって? 少し気になることがあるのよ。もしかして、わたしに関係があることを訊かれなかった?」
――「前の旦那の住所を教えて欲しいと言われたんだが、知らないと答えておいたよ」
「まさかとは思ったんだけど、やっぱりそうだったの……」
――「何かあったのか?」
飴井が心配して訊いた。
「ううん。大丈夫。大したことじゃないの。帰ったんならいいわ。ありがとう」
そう言って美樹は受話器を置いた。

その時、玄関のドアが開いてハンスが戻って来た。
「ハンス! 心配したのよ。こんな時間まで何処へ行ってたの? まさか……」
冷気のせいか、彼の顔は少し青ざめて見えた。
「見つかりませんでした」
彼が言った。
「ハンス……」

「殺してやろうと思った」
彼が言った。
「美樹を傷つけた男を見つけ出して殺してやろうと……。僕なら、確実にそいつを殺せる。だから……」
「ハンス……」
「でも、見つからなかった」
玄関に置かれたポインセチアがじっと二人を見つめている。
「そう……」
美樹はそれだけ言うと涙を流した。

「美樹ちゃん、何故泣いていますか?」
玄関に飾られたサンタクロースが微笑んで、天井から吊り下げられている金のモールがきらきらと光を注ぐ。
「だって、ハンスが……」
言うよりも早く想いが溢れた。
「僕が泣かせたですか?」
ハンスはじっと彼女を見つめた。
「そうよ。あなたが……」
耐えきれずに彼女は俯く。

「僕の手は汚れています。もう何人も、この手で悪人の始末をつけてきました。今、ここでもう一人くらい増えたところで何の問題もありません。だから……」
「駄目よ!」
彼女が言った。
「何故ですか?」
「あんな奴のために、あなたが手を汚すことなんかない。あの男にはそんな価値さえもない。それに……」
「それに?」
「わたしは……あなたにそんなことをして欲しくない」

――人の生き死にを左右する能力を持ってしまって、躊躇いを感じない人間がいるでしょうか

「人殺しはいやですか?」
「……」
「でも、必要があれば、これからも僕は人を殺さなければならない。それが僕の仕事だから……」
壁にはめ込まれた鏡の中に二人が映る。
「そうね。でも、それは大勢の人々を守るためであって、わたし一人のためじゃない。そんなちっぽけなことのために、あなたが動く必要はない。たとえ、わたしがそれを望んだとしても、あなたはそれをしてはいけない。わたしのためにあなたが汚名を着ることなんかないのよ」
頬に伝わる涙をそっと指の腹で拭ってやると、瞼にキスして彼は言った。

「わかりました。もう君を困らせません。だって、このままだと、僕は君を泣かせた自分自身を罰しなければなりません。だから、もう泣かないで……。これからは僕のために生きてください。僕達が目指す同じ未来のために、二人であの光の船に乗りましょう」
一途な彼の瞳は真っ直ぐに彼女だけを見つめている。

「美樹、クリスマスには何が欲しいですか?」
ハンスが訊いた。
「何も……」
美樹はじっと彼の顔を見つめて言った。
「あなたがいてくれればそれでいいよ」
「美樹……」
彼女はハンスに凭れ掛かったまま、移り変わるツリーの灯を見つめている。それから、ふっとため息のように言った。

「だって、子どもの頃、うちにはサンタクロースなんか来なかったもの」
「……?」
その背を撫でていた手を止めて、彼は美樹の顔を見つめた。
「両親はちゃんとプレゼントをくれたよ。友達ともたくさんプレゼント交換した。でも、うちにはサンタクロースは来なかった……」
壁に貼られたクリスマスカードには、リボンの付いたプレゼントの箱が大きなくつしたから顔を覗かせている。
「枕元に置いたくつしたは、いつも空っぽのまま……」
彼に触れている手が微かに震えた。
「クリスマスの朝……。いつも空しいままに目が覚める。サンタクロースなんかいないってわかってる。でも、子どもの頃には信じていたかった……」
「美樹……」

「いいんだけど……。別にキリスト教の信者じゃないし、もともと外国のお祭りだもんね。それに、昔のことだから、うちの親達にはきっとそういう発想なかったんだと思う。それで、気がついたら大人になってたの。でも、やっぱりクリスマスって好きよ。あのイリュミネーションの光が……。とても美しいと思うの。一つ一つは小さな光だけれど、闇を照らす清らかな星のようで……。もしくは、儚い命の灯のような気がして……。見つめていると心が和む。聖夜だからかな? 心が純化していくような気がする。だから、イリュミネーションを飾りたいの」
そう言う美樹の瞳の奥に輝く命を、ハンスは愛しいと思った。そして、その温かい命を抱き締めて言った。

「サンタクロースは来なくても、クリストキントが来てくれますよ」
「クリストキント?」
「そう。君が亡くした赤ちゃんと共に、クリストキントがプレゼントを届けてくれる。心やさしい君のために、きっと……」